章 XVIII · 読了約 1 分

メタトロンとマルフート

類比であって、同一ではない

カバラーハシドゥート

メタトロンとマルフートのあいだには、慎重ながら実りある類比がある。

マルフートはカバラーにおいて、自らのものを何ひとつ持たないものとして描かれる——

לית לה מגרמה כלום.

原文

それはマルフートを無価値にするのではない。

それはマルフートの驚くべき容量を説明する。

自らの光を発することに固執しないがゆえに、それは先立つセフィロートが別の秩序へ入りうる器となる。

マルフートは口である。

マルフートは言葉である。

マルフートは月である。

マルフートは玉座である。

マルフートは、被造の諸世界との関係におけるシェヒナーである。

その偉大さは関係的である。

その見かけの空虚さがもてなしとなる。

他者のための場所があるのだ。

メタトロンの偉大さも、二つの範疇を同一視することなく、同じ法によって読みうる。

彼は自らの力で何も担わない。

ゆえに彼は名を担いうる。

彼は定めを発しない。

ゆえに彼はそれを忠実に伝えうる。

家は彼のものではない。

ゆえに鍵は彼に託されうる。

彼は王ではない。

ゆえに彼は王の最も忠実な僕となりうる。

これが聖性の核心にある反転である。

自我は、自らのものを持つことが偉大さを生むと思い込む。

ケドゥシャーは、最も透明なものこそ、ときに最も多くを担いうると見いだす。

窓が輝くのは、自らを不透明に塗らないからである。

月が夜を照らすのは、受けるからである。

胎が産むのは、場所をつくるからである。

僕が印璽を担うのは、自らの印璽を鍛えないからである。

「より小さきハヴァヤー」もまた同じである。

ハヴァヤーの前における彼の小ささこそ、ハヴァヤーを顕わす彼の力なのである。